早いもので(ハナカミ)
早いものでもう十月です。肌寒い日が続きます。
でもそれでどうしたということでもないのです。僕はいまが十月だろうと寒かろうと、今日の天気が曇りだろうと、別にそう言ったことを話したいのではないのです。ならどうして僕は『早いものでもう十月です』などという文章を書いてしまったのか? 答えは簡単です。他になにも書くことがないからです。
ところで皆さんはご存じでしょうか。
二人の男が街を歩いています。ですが歩いているうち、どっちの方にゆけばいいのかわからなってしまいました。
その場合、考えられることがいくつか有ります。
1.目的地への道順がわからなくなった。いわゆる迷子です。この場合は地図を見るなり、人に道を聞けばよいので、それほど重大な問題とは言えません。
2.疲れて歩けなくなってしまった。あるいは目が見えない、足が故障した等の肉体的、精神的な理由によって目的地にたどり着きがたく思えてきた。この場合は、休憩を採るなり、栄養を補給するなりすれば解決します。これもそれほど重大な問題とは言えません。
3.しかしそもそもこの歩行には目的地など存在していないのではなかったか? だとすれば、この場合、かなり物事が深刻になってきます。なぜ彼らは歩き始めたのか? 目的地などが存在すると勘違いしていたのか? それとも歩くこと自体が目的だったのかと、一度冷静になって自分をしっかり見つめ直すべきでしょう。
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今日読んだ本。
「ニーチェが泣くとき」
どうゆう本かとゆうと、ニーチェが泣きます。
あとアマゾンに注文したエロマンガとグレッグ・ベアの新しい短編「しあわせの理由」を読みました。エロマンガもグレッグ・ベアも、どちらもとても面白かったです。それで関係ありませんが、いまふと思いついたんですけど、最近美少女系ゲームとかのネタがもう出尽くしてて、僕ももう飽きちゃって、最近全然そういうのはやってないんですけど、やっぱりそろそろ新しい息吹が必要だと思うんですよね。それで僕が考えた新しいジャンルが「ニューエイジ系美少女ゲーム」です。BGMがジョン・C・リリーの「E.C.C.O(地球暗号統制局)」で、メインヒロインは宇宙人で、主人公は悟りを求めて日々修行する行者です。
真の愛、そして悟りを求めて彼は、(もう書くのがめんどくさくなったので、このネタはこれで終わりです)
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ドキドキポエム「部屋とニヒリズムと私」
なんか面白いことないかなぁ……
なにもありません。
いえ、なにもないということはないのです。
ほどほどに面白いことは沢山あります。
たとえばお祭りとか。
生活における祭りは、様々な姿形を伴って我々の前にその姿を現します。
いわゆるハレです。飲み会、頑張った仕事の成功、燃え上がるような(そこまでいかなくても)ドキドキする男女交際、自己実現、その他いろいろ、ハレの時間というのは、沢山あります。
そういうのは楽しいので愉快です。
だから面白いことはなにもないというのは嘘です。
面白いことはイロイロあるんです。
でも「それはただの気分さ」と歌にもあるとおり、
面白いのはタダの気分です。
ここにおいて人は実存てきな悩みを抱え、
おうおうにしてメタフィジカルな事を考えるようになります。
苦しいこともあれば楽しいこともあるこの生活はなんだろう?
なぜ僕はここにいて、なぜ世界はここにあるのか。
こうゆうのにどうゆう意味があるのか?
と、けいじじょう的な問題を、頭を捻って考えます。
でも考えても、結局その考えは、ただの考えるフリ、あるいはネタです。
なぜならその考えは、世界の外についての考えだからです。
だから昔の偉い哲学者は、そうゆうことは考えてもあまり意味ないよとゆいました。僕もなるほど、考えてもダメだなと思いました。
そこで仕事や日常生活に精を出すのです。
田畑を耕し、雨にも負けず風邪にも負けず・・・・
大根などを育てて食べます。
おいしいです。
でも飽きますね正直。
何の意味があるんだろうと考えます。
いやあるいは、いえきっと、この考え自体が、なぜ僕は、何のために生きているのかという問自体が、楽しい生活を送れない人間に特有の負け惜しみなのでしょう。本当に楽しければ、端的に人生が充実していたならば、決して人はこういう事を考えないものです。しかしそれがわかっていても、でもやはりときどき考えます。この生活に何の意味があるのだろうかとくだらないことを考えます。
そして少し、なにもかもむなしいことだなと思います。
眠たいことだなと思います。